§ 指 導 理 念

■教育理念

 「自主性」・「発想力」・「忍耐力」を有した人材の育成。


■指導目標

 当塾の目標は、どんなテストでもよいから、100点をとるということ。子供たちに、勉強してよかった。100点をとってやった!という思いをしてもらいたくて学習塾をやっています。


■100点にこだわる理由

 100点をとると子供の中に何が生まれるか?



 以上のように、たった1個の100点が子供を大きく成長させると固く信じているからなのです。上の例では、少々誇張した書き方をしておりますが、逆に100点を取れない子供が、どのように成長していくかを真剣に考えて見てください。

 @ 勉強が嫌いになり、自分から進んで勉強しない。・・・・・・・・・(自主性の欠落)

 A 勉強しないので、工夫も生まれない。・・・・・・・・・・・・・・(貧弱な発想力)

 B 考えれば分かることでも考えずに、すぐにあきらめる。・・・・・・(忍耐力の不足)

 これでは、子供の心は育ちません。体ばかりが大きくなるだけです。
 このように考えると、とにかく、出来るだけ早い時期に100点を取る喜びを子供たちに体験させることが重要になります。早い時期に、この喜びを体験できず、一度勉強嫌いになってしまうと、「嫌い」が「喜び」に変わるまで、非常に長い時間が必要となるのです。ですから、出来るだけ早い時期に100点を取る喜びを子供たちに体験させて100点中毒にすることが重要なのです。
 このように記述すると文部省や教育委員会などの方々に「詰め込み教育は良くない」と怒られそうですが、私は、詰め込み教育でもいいと思っています。なぜなら、小学校・中学校での学習とは、その内容を深く理解することが重要なのではなく、一生懸命学習したという努力の過程が重要であると考えるからです。古文や漢文、「雲は色々な形があるけど、どうやって出来るの?」とか、挙句の果てには、「645年は大化の改新、実行者は中大兄皇子・中臣鎌足でなぜ改新したの?」など、知っていても実社会では、ほとんど役に立ちません。このことは、ご父兄様が十分理解されていることと思います。それでも、子供たちは学校で習ったことを深く理解できなくても、きちんと覚えなければいけないと私は考えます。それは、きちんと覚えていなければ、テストで100点を取ることができないからです。テストで100点を取ることができなければ、「自主性・発想力・忍耐力」が子供たちの中に育たちません。
 実社会で生きていくために大切なことは、

「自分が直面した問題に対して、

自主的に、独自の発想で、あきらめず忍耐強く立ち向かい、

色々な対処ができる人間になる」

ということです。これは、当塾の基本理念にも掲げている「自主性・発想力・忍耐力を備えた人材の育成」にあたります。テストで100点を取ることで、子供たちの中に確実にこの3つの要素が育成されます。そう考えると、闇雲に学習するのではなく、学校のテストで100点を取ることを目標にして学習することが、「自主性・発想力・忍耐力」を身に付ける最も良いトレーニング法だと考えますが、皆様はいかがお考えになるでしょうか?




§ ご あ い さ つ

■はじめまして、こんにちは。

 当塾に関心をお持ち頂いて、この文章を読まれている方の大半は、小・中・高校生のお子さんをお持ちのお父さん・お母さん方であると思います。そうしますと、私の同年代にあたる方が多いかと思いますが、「何をたわごとを・・・」とおっしゃらずに、是非最後までお読みになって頂きたいと思います。

 私たちの時代は、第二次ベビーブーム世代で、同年代人口が非常に多く、受験に関しては「受験戦争」と言われたくらい厳しい状況にあった時代でした。勉学に関しては、現在取りざたされている「ゆとり教育」とは正反対の「詰め込み教育」でした。学校において先生は絶対的な存在で、指導のための多少の暴力(愛の鞭)も特にとがめられることのない時代でした。私が過ごした学校生活で、私の記憶に残っているのは、物凄く怒られた記憶です。特に「恐怖」を感じた先生の記憶は、昔の記録として私の脳細胞の中に今でもしっかりと刻まれています。

■忘れたくても、忘れられない・・・。

 それは小学校5年生のときに指導して頂いた社会の先生です。その先生は金属製の棒を新聞紙に包み、言う事を聞かない子・覚えの悪い子には、それで頭を殴るという今の教育現場では想像もつかないような指導方法をとっていた先生でした。私はこの指導方法を肯定するつもりはありませんが、この先生がかもし出す「恐怖」のおかげで小学校5年生で日本の都道府県全ての位置と漢字を記憶することができました。この点に関しては、この先生が与えてくれた恐怖に感謝しています。でも、もう一度その先生に指導してもらいたいとは思いません。そして不思議なことにその先生のお名前は良く覚えていないのです。

 一方、厳しさの中にあたたかさをもって指導して頂いた先生の記憶も当然ながら残っています。小学校4・5年生のときに2年間お世話になった担任の「高井郁郎」先生です。しかし先の例の先生のようにこの先生のおかげで「これを覚えることができた」という記憶は、私の脳細胞の中に記録として刻まれてはいません。この先生は怒ったときは物凄く怖い人でしたが、決して子供の心に「恐怖」を与える人ではありませんでした。怒られていてもどこかで安心できる・・・そんな先生でした。この先生に出会わなかったら自分の人生が大きく変わっていたと確信できるくらい、私は、その先生に影響を受けました。

 以上私が出会った二人の先生を簡単にご紹介してきた訳ですが、「子供の学習能力向上」という目的のみを達成するには、どちらの先生の指導方法が良いでしょうか?間違いなく前者の先生だろうと思います。なにしろ、具体的に覚えられた内容まで事細かに記憶できているのですから・・・文句の付け所がありません。でも、私は、先にも述べましたが、もう一度この先生に指導して頂きたいとは、大人になってから冷静に考えてみても決して思いません。そして、その思いは、この先生がいたから都道府県を覚えられたという記憶が一生残るのと同じように一生変わることはないでしょう。

■それは、どうしてなのでしょうか?

 それは、その先生の指導方法が「恐育」だったからです。恐怖は人間を一時的には成長させますが、人間を継続的に成長させる効果はないのです。ですからこの先生の指導方法は肯定できません。子供の教育において、一番大事なことは、

     「小学校・中学校の9年間を通して子供たちを継続的に成長させる」

ということです。必要なのは「脅育」や「恐育」ではなく「共育」や「協育」であると思うのです。指導する側が一方的に教えるという立場や考え方を捨てて、子供たちと一緒に学び、子供たちから色々と教えてもらおうという気持ちを持って「共育」を行うことが大切なことだと思いますし、私一人でやるのではなく、ご父兄様と一緒になって「協育」を行うことが、最善の方法であると考えております。間違っても「狂育」や「凶育」にならないよう日々精進していきたいと考えております。また、子供たちに直接必要なのは「驚育」や「興育」であると思うので、できる限り子供たちの「驚き」や「興味」を刺激して支援していきたいと考えております。決して「恐怖」を利用することで学力向上を図る方法では指導しません。また、のらりくらりと甘やかして指導するつもりもありません。厳しさの中に暖かさをもって子供たちの成長の支援をしていきたいと考えております。