更新日記2010年10月下旬号

10月31日(日)
いよいよ10月も最終日で、明日から早くも11月。
妻は寄る場所があるので別行動だったが、時間には久々に3人でチャペルに集合。
お昼には息子と一緒に、20%オフの丸源でラーメン。
午後はグレースの出番で、賛美歌を7曲歌った。
集会の後は学校に行き、義父の葬儀のお礼を配布し、久々のHP更新。
一緒に玄関に入ったK先生が、警備保障のセンサーに引っかかった。
こちらも新しいシステムになって初めて入ったが、ちゃんと知っていたのに、どうも周知徹底していないようだ。

10月30日(土)
心配していた台風の影響は、それほどでもなく、息子の送り迎えだけで1日終わった。
朝は息子を送って、ファミブで一歩を購入し、一気読み。
午前中はCD作り。
昼は息子を迎えて、すずきで昼食。
午後は息子を塾に送って、迎えは研修旅行から帰ってきた妻がやってくれた。
妻は台風の影響が強い、横浜鎌倉方面に行ったが、それほどの風雨ではなかったようだ。

10月29日(金)
今日は息子と三女を駅に送ってから、茨城に妻を迎えに行くつもりだったが、三女が間に合わず、学校まで送りつつ茨城へ。
いつもと出発点が違うため、勝手が違い、途中まで脇道を通っての道中。
それでも、茨城には割とスムーズに到着。
お昼はCちゃんの作ってくれたちらし寿司がおいしかった。
しばらくして、妻を乗せて群馬へ。
小山で葬儀にいろいろしてくれた方々へのお礼のお菓子を購入。
これもまたスムーズに群馬に帰還。
明日は妻が横浜方面へ組合の旅行だが、台風が接近しているのでどうなることか。
息子の学校への行き帰りもやや不安。

10月28日(木)
今日は県民の日で学校は休み。
職員は出勤日だが、忌引きの続きで勤務しなかった。
お昼近くになって、三女を耳鼻科に連れて行った。
午後は音楽センターで、妻の代理で第九等のチラシの折り込み作業。
夜は長女と吉岡に行き、帰りにはなまるうどん。

10月27日(水)
昨夜は8時ころ前橋のびっくりドンキーで夕食を食べ、9時ころ帰宅。
今日も、妻不在による雑用がたくさんあるので、忌引きをそのままいただく。
朝はまず息子を起こして駅まで送り、妻の駐車場の契約更新。
メールチェックで、Oさんからメンネルの練習用MIDIが送られてきたので本サーバーに掲載。
昼前は三女を眼科に連れて行き、長女の通院の予約を取りに行く。
午後は長女を病院に連れて行く、息子をrきまで迎えに行って連れ帰り、長女をまた迎えに。
夜は、次女も交えて吉岡JAに行ってからMOGUで夕食。
空き時間はひたすら昼寝していたが、眠くて仕方がない。

10月26日(火) am4:50

今日は父の火葬と葬場祭が待っている。
私は葬儀の最後に親族代表として挨拶をする。
母に原稿をもらい、自分なりに手直しをしてプリントアウトしたのだが、
家においてきてしまった。
パソコンには入っているので手書きで書き写したのだが、物足らない。
夜中に目覚めて、ずっと眠れないのであれこれ考えた。
止め処もなく、いろいろな思い出や思惑が浮かび上がり、ますます眠れない。

まず父の死について。
半年もの間、やさしく手の行き届いた病院におり、
ずっと母や弟や妻が付き添う中で過ごした父が、
完全看護をうたいながらも、何ひとつ処置もせず、
父を見殺しにして、死に目にも合わせてくれなかったひどい病院に
なぜ入って、そこで死ななければならなかったのか・・・

はじめは、ひどい運命のいたずらだと思った。
母は、こんな死に方をさせてしまい、死に目にも会えなかったことを深く悔やんでいるが、それではあまりに浮かばれない。
私は悶々としながら父の生き様を思い返した。
父は実に穏やかで謹厳実直、曲がったところの嫌いな人だった。
いい加減な態度でいると、厳しく叱責されたのを思い出す。
そして、じつに辛抱強い人だった。
父が泣き言を漏らす姿など、一度も見たことがない。
ベートーベンやモーツアルトが、孤独のうちに偉大な生涯を閉じたように、
父もまた孤独のうちに偉大な生涯を閉じた。
植村直己さんが、単独マッキンリーで最期を迎えたように、
父も死に場所を選んだのではないかと思った。
暖かいぬくもりの中で、平穏無事に生涯を閉じるのではなく、
冷たい病室のベッドの上で、ただ一人、人生最後の戦いを戦い抜いたのではないかと。
一人さびしく去って行ったのではなく、勇敢に戦い抜いて、帰ってきたのだと。

私にはとてもまねできない、逃げ出したくなるような試練に、単独向かっていたのではなかったか。
なんだか、ゲツセマネの園で一人でお祈りし、一人で十字架に向かっていったイエス様の姿とかぶった。
勇敢な気高い、ネイティブアメリカンやバイキングが選ぶような死に様だったのではなかったかと。

父は頑固であった。
その頑固さは、弟も妻も私の子供たちも受け継いでいるように思う。
優柔不断で妥協しやすい私とは違って、
彼らの中には、勇敢で気高く孤独を恐れない、父の血が流れている。

残されたものとして、この父の志を受け継がなければ、
父の死は犬死に終わってしまうように感じた。
眠れなかったこの夜は、父からの最後の教訓。
大事な大事な夜だったと思う。

今、万感の思いを込めて、父の葬儀に向かう。
 

10月25日(月)
学園祭が終わり、どこかで打ち上げをしていた三女も9時には駅に着いたので、迎えに行く。
予定通り11時に、子供ら4人を引き連れて茨城に向かって出発。
道路は平日の昼にしてはすいており、2時間半ほどで義母の家に到着。
妻とは2日ぶりに再会。
久しぶりに4人そろって祖父母宅に帰ってきた子供たちは、祖父の変わり果てた姿に涙涙。
こちらは礼服のズボンを間違えて、辛うじて穿けるキツキツのだったため、先が思いやられる。
狭い部屋と廊下で、納棺師による処置を見届け、顔や手を拭いてあげて、いよいよ棺に納めて出棺。
葬儀屋さんではトイレでズボンのホックがはじけ飛んでしまい、ファスナーとベルトで辛うじて対応。
神道式の通夜祭(つうやさい)で、立ったり座ったりが頻繁で、ものすごく大変だった。
通夜の後通夜振る舞いがあり、ズボンがきついので思い切り食べられず残念。
ビジネスホテルには予定通り8時ころチェックイン。
ネット完備で、無事更新できた。

10月24日(日)
今日はいよいよ半年かけて準備を進めてきた増田太郎講演ライブの日。
昨夜はトンカツ用の豚肉でパーコー(豚のから揚げ)に挑戦し、絶品だったが、今朝はポピュラーな鶏から揚げ。
昨日仕込んだ豚汁を温めなおして車に積み込み、早めに学校に行って、物品の準備。
そのあとは、いよいよ高崎駅に増田太郎さんを迎えに行く。
20分も早く着いたが、あちらも予定の時刻より早く来られたのでびっくり。
握手をして学校まで送り、いよいよ会場準備と音声の調整。
今回はPAも務めることになりやや緊張。
ライブは大いに盛り上がり、物販もまあまあうまくいって楽しく終了。
最後は駅まで送って、ここ数年来の大仕事が一つ終わった。
帰宅して、増田太郎さんのブログ「今日も前のめり」をチェックすると、早々と載っていた。
夕食は我が家の豚汁を再利用してカレー作り。
明日はいよいよ子供らを引き連れ、茨城に戻って通夜祭、明後日は葬場祭。

10月23日(土)
日付が変わったばかりのころ、義父の葬儀のことなどもあるので、妻と二人で茨城に向かう。
父は半年もの間入院しており、8月には危篤になったが、あの猛暑の中を乗り切って、小康状態を続けていた。
それが、どうしても完全看護の病院に移らなければならなくなり、 転院して2日目の夜のことである。
マイミクさんも週1で勤務している病院で、 主治医のムンテラもなかなか素晴らしかったので喜んでいた矢先だけに、 にわかには信じられなかった。
主治医の方は信頼できる方だったようだが、看護師さんへの母や妻の評価は激辛である。
一人だけ熱心に対応してくれた方もいたようだが、他の数名は挨拶しても返事もできない者、医師の説明を壁に寄り掛かって聞いている者、痰がからんだというので取ってもらったのだが、おざなりな取り方で、前にいた病院とは雲泥の差の対応の者、淡々と事務的に事を運ぶものなど、惨憺たる有様だったらしい。
父がなくなったから悪く見ているわけではなく、その前にそんな印象を伝えていた。
母は前の病院では、片時も離れずに父に付き添っており、最後の時を一緒に過ごせるものと信じ切っていたのに、たった30時間のうちに、粉微塵に願いを打ち砕かれ、手ひどく裏切られてしまったのだ。
金婚式も済ませ、本当に仲の良い夫婦で、最後に「ありがとう」とお別れを告げたかったという母の気持ちを考えると、悲しみと憤りでこちらの胸も潰れそうである。
「何が完全看護だ」という叫びを、どこに向けたらいいのか・・・
完全看護とは、最後のひとときを、愛する者同士を引き離して、孤独のうちに死なせることなのだろうか。
きっと、たくさんの誤解でとらえているのだとは思うが、少しでも溜飲の下がる説明が聞きたくてたまらない。
朝9時ころ30分ほどの仮眠をとり、いろいろな買い出しなどをして、妻を残してとんぼ返りをしてきた。
明日は絶対に休めない、PTAセミナーの全責任がある。
講師の増田太郎さんを迎えに行き、会場のセッティングを確認し、弁当を用意し、講師紹介をし、また駅まで送ってゆくまでは、何としてもがんばらねば。
唯一の不幸中の幸いは、葬儀が26日の火曜日だということ。
セミナーが終わり、夜が明けたら、4人の子供たちを引き連れて、義父との最後のお別れに向かう。

10月22日(金)
朝は忙しく三女を学校まで送り、そのまま総合教育センターで安全主任としての研修。
帰宅してからは、いつものように吉岡に行き、三女の迎え。
そして、日付も変わろうとしているころ、突然、茨城の義父の訃報が入る。

10月21日(木)
朝は妻がいないので、三女も早く起こして息子とともに駅に送りつつ出勤。
学校では講演ライブの準備や体育館掃除。
午後は市庁舎に出張。
帰宅後は吉岡に4人で行き、子供らをおろしてから第九の合唱練習へ。
帰りにはウニクスで時間調整をし、三女を迎えて帰宅。

10月20日(水)
朝から放課後まで、いろいろな課題が絡み合って多忙な1日。
妻は、明日、義父が転院するため、手伝いで茨城に向かった。
帰宅後は次女が不調なので、長女と2人で吉岡に行き、帰りにサントスで夕食。
息子には出かける前に定番の辛ラーメン。
息子は高等部への進学が内定したらしい。
とりあえず一安心。
夜は三女の迎えを気にしていたが、電波状況が悪く、駅に着く直前の携帯のみ受信できた。
あわてて駅に向かったが、道路も信号もスムーズで、6分という最短記録をたたき出した。

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